リクエストお題「孤独死」

 

先日、CONTACTのメールフォームからとっても嬉しいお便りをいただきました。これからも書き続けようとまめた君と語り合ったところ。ありがとうございます。

そして、そのメールに「孤独死」について読んでみたいという下りがあったので、まずは戸村、参ります。

定義を押し広げてみる

「孤独死」というと、身寄りのない人が独りで亡くなって、ご遺体の発見も遅れて……といったイメージがあるけど、私は「孤独死」と聞いた時、「何も身寄りのない人に限らないのではないか」とも思った。

仮に家族と共に生活していても、その家族との間に深い溝があったら?

こう考えたのは、母方の祖母のことを思い出したからだ。

彼女は数年前に施設で亡くなったが、終戦時、満州から生まれたばかりの長男を抱いて帰国した、という伝説を持つ人でもある(その壮絶な「伝説」はいつか別途書いてみたい)。

しかしその長男と折り合いが悪くなってしまい、同じ敷地内の屋敷、母屋に祖母がひとりで暮らし、離れで長男夫婦が生活する、という状態が十年以上続いた。
両者の間に会話という会話はなく、台所と風呂は共同だったが、同じ空間にいる、ということはなかった。例えば私が遊びに行っても、まず長男(私の叔父)がやってきて、彼が去ると同時に祖母が来て、祖母が去ればまた叔父が来る、という、徹底的に「断絶」した親子だった。

最終的に祖母は施設に入ってそこで亡くなったが、もしあの屋敷にいる間に死亡していたら、ある意味で孤独死だったのではないだろうか、と私は考える。

精神的孤独死

私の記憶は曖昧なのだが、母親によると、私は何度か薬物のオーバードーズで自殺を図っていたらしい。何しろ薬物を飲んでいたので記憶はないが、「死んだら連絡する人リスト」まで用意していたというのだから、まあ本気だったのだろう。

断っておくが、私と両親は「断絶」とは程遠い仲の良さを誇る。特に母親は、私の「ラスボス」ではあるが、普段は何でも話せる親しい間柄である。三十路の今でも、何かあったら彼女に相談をするくらいだ(親離れしていないとも言う)。

それでも私が両親のいる実家でODを繰り返し自傷を繰り返したのは、やはり私が心のどこかに「孤独」を抱えていたからではないだろうか。

一緒に生活する人間がいても、どんなに近くにいても、人間は他者を完全に理解することはできない。これは最近夫との関係性で再度確認した事実でもある。

そんなことを言ったら全ての人間が孤独で、すべての死が孤独死になってしまうが、そうではなく。

「自分の中にある孤独から上手に目をそらす人」
「家族やパートナーの存在で自らの孤独を覆い隠せる人」
「自分が孤独を抱えていることに気づかない人」

こういう人たちが、世の中の大半なのではないだろうか。

自らの孤独に向き合うことはとてもしんどい。向き合いすぎていると取り込まれてしまう。その意味で、孤独と「絶望」は似ている。

「アンディは消えたよ」

私が10代の頃から敬愛し、NYに行くきっかけともなった、20世紀が誇るポップアートの騎手、アンディ・ウォーホルは、「もしもぼくが死んだら、『アンディが死んだ』ではなく、ただ『消えた』と言って欲しい」と生前に語っている。

また、今手元に書籍がないので正確な引用ができず恐縮だが、以下のようなニュアンスの発言もしている。

「誰かが死ぬなんて信じられない。みんなデパートに入っていくだけだ」

アンディに見出された若きアーティスト・バスキアを描いた映画では、デヴィッド・ボウイがアンディ役を演じている(余談だがカート・コバーンの妻コートニー・ラブも出ている)。
そのデヴィッド・ボウイも、最近亡くなった。アンディ、ボウイと交流の深かったルー・リードも死んだ。

みんな、デパートに行ったのだろうか。

話がそれたけど

おそらくリクエストをくれた方は、冒頭に挙げた定義通りの「孤独死」についての考察をご希望だったと思う。

しかし考えれば考えるほど、「孤独」が、そして「死」が、他人事ではなくなってくるのだ。

そんなわけで要望とは違ったかもしれないけれど、戸村の「孤独死」考察でした。

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